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商店街あれこれ

明治3年までの千日前は、墓地と焼場と刑場しかなかった。
千日前刑場の獄門台には、無残なサラシ首が置かれ、夕闇が迫ると、千日六坊の「一つ鐘」が諸行無常の響きを伝え、道頓堀の角座の楽屋から獄門台のサラシ首が見物できると言われた。
文字通り「墓場から歓楽地へ」と千日前の歴史はめまぐるしいのである。

千日前の由来は、竹林寺境内にある千日の大師詣りがなまったのだと言われている。また一説には、千日墓地にはいくつかの寺があり、この内法善寺は最も古いといわれ、寛永年間千日の供養を施したことから千日寺の名が起こり、この寺の前のとおりを略して「千日前」というようになったとも伝えられている。

安井道頓が運河開掘をし、新地発展の一策として勘四郎町(安堂寺町)西の芝居を河南に移して芝居街を作り、併せて遊女町をその付近に設けた。寛永3年にはすでに芝居小屋が並び始めたと推測される。

豊臣の大阪落城後、城代としてやってきた松平忠明が灰になった大阪の区画整理に手をつけ、阿波座、津村、上難波の4ヶ所に散らばっていた墓地を下難波いまの千日前に移したのが始まりである。

明治3年、千日前墓地と焼き場は、”阿倍野の新墓地”に移され刑場は廃止された。
府は千日前を歓楽街にしようと考えたが、気味が悪いと誰も寄り付かない。
しかし、これを聞いた阪町の質屋、塩田寿賀というお婆さんが50坪だけを引き受けた。
その後、名古屋の興行師横井勘市が一坪一両で買い取った。横井は始めは奥田弁次郎の見世物小屋で働いていたが、大風が吹けばすぐに飛び出して、他家の屋根板が飛び散るのを拾って薪にしたり、火事があると焼け跡で釘を拾うなどして、少しずつお金をため、千日前に劇場を作ったりした。

もう一人の花形興行主奥田ふみ女は、千日前に見世物小屋を立てた。客寄せのため平野町から夜店を呼び集めることを考え、夜店商人一店に一晩五里ずつの油代を補助したのがあたり、道頓堀止めの客足を千日前まで引き寄せることに成功した。

一方葬式を阿倍野新墓地に奪われた葬具屋山田屋こと藤原重助も千日寺のお坊さんと結託し、三藤半七の墓を見つけて追悼会を千日寺で催すことになり、偽物の遺品を大展観してマンマと大阪人をひっかけたが、これがまた大好評。おでん屋、見世物小屋が門前に市をなし、お賽銭の上がりに気を良くした千日寺では、寺を管理していた付近の権利を重助に一任した。

一度人が集まると、あとは百鬼夜行のような見世物小屋が乱立スズメ、チュウチュウ大夫のスズメ芸やサル芝居、射的もどきの吹き矢ダルマ落としの類が人気になり、この間に食物屋が割り込んできた。
明治11年と14年に大火があったが、焼け太りで小屋も料理屋も大繁盛、地価もうなぎ登り、興行物も本格的になってきた。

明治25年には、今の大劇前通りが完成していたが、明治45年1月16日の火事で千日前を中心に21ヶ町を焼野が原にしてしまった。この火事のおかげで宗右エ門を通る予定だった市電が、千日前の焼け後に施設され、足の便がよくなったので、以前より一層の賑わいを見せ始めた。

大火の後、慰安の千日デパートの場所に歓楽場楽天地が建てられた。イルミネーションつきの登仙閣という高い塔があり、それを回りながら上がっていくと市内が見渡せた。中央劇場のほかに、キネマ館、子ども館もあり、なんども見られ、一日ゆっくり遊べた。
いこの楽天地も時代と共に老朽となり、大和7年10月3日大歌舞伎座に生まれ変り、今日の千日前の幕が華やかに開かれた。

その後、幾多の変遷を経て、大東亜戦争の末期大空襲による戦火で灰尽に帰した千日前も終戦と同時に力強く復興に立ち上がり現在の近代的商店街の礎となる。

千日前常盤座附近
千日前刑場内六地蔵
大正時代楽天地
 
法善寺内水掛不動尊
 
千日デパート
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